アンコールとクメール建築

アンコールとクメール建築
アンコールとクメール建築
「全ての道はアンコールに通じる」この逸話が象徴するものこそクメール建築に現れていると感じる。時の民をも言わしめた言葉であるが、当時の盛栄を極めたクメール王朝の12世紀末から13世紀初頭にかけて多くの宗教施設を造営し、同時に道路の整備も行われた。

 

この時に東南アジアの大部分がアンコールに通じていたといわれる。東はベトナム東部にあったチャンバ王国、西はタイの大部分、マレー半島北部までもこのクメール建築の影響を受けている。

 

そのクメール建築も突如として現れたものではなく、その経緯は6世紀以降の建造物にはじまり、ジャヤーヴァルマン7世の出現する半世紀前12世紀初頭に造営されたアンコール・ワットにおいて終結される。まさにアンコール・ワット建造のためのプロセスだったと推されるほどである。

 

それゆえに建築材料はもとより、レリーフや外観といったディテールにいたるまでが試行錯誤されながら改良につぐ改良で、進化していった。まさにアンコール・ワットはクメール建築が作り上げた最高傑作といっても過言ではないのである。

 

クメール建築の課題

さて、そのクメール建築も順風満帆ではなかった。進化し続けるクメール建築において、最大の難関となったのがアーチ型の天井だ。これはヒンドゥー教とも深い関わりがあり、仏教の宇宙観を表現するためには絶対に避けて通れない技法だった。

 

王は支配者であると同時に死後、神となる神王であったため、その宇宙観を現世に具現化する必要性があった。したがって、少しでも天界に近いところという考え方から、聖なる山を拝し、頂に神殿を造営したりした。

 

しかし、この建築技法も天井部のアーチがクメール建築で表現されるようになり、大きく変化を遂げている。先のページでも紹介したが、建築様式が「平地式」にピラミッドを形成するように変化していった、最大のターニングポイントになったといっても過言ではないだろう。

 

クメールの窓の秘密

アンコール・ワットの魅力を解き明かす一つのヒントで、開口部の窓の処理方法があるといわれる。クメール建築において窓の処理はかなり重要視された。大きく分けると3つに分類され、一つは、砂岩製の側柱(または積み石)を両側に立て、その上に同じく砂岩の楯石を載せて処理する楯式の開口部。次に、壁自体に穴を開けてくりぬいたくり抜き型の窓。

 

もう一つはスリット状の窓でレンガやラテライトを壁体から部分的に抜いて開口部を設ける手法が施されている。9世紀末期のロリュオス遺跡群や、10世紀中頃のプレ・ループなどで多く用いられているが、アンコール・ワットではまったくといってよいほど使用されていない。

 

その反面、アンコール・ワットでは連子状窓が多く使用されている。特に第2回廊の中庭に面した内壁には多くの女神デヴァターの浮彫りが多く見られる。実はこの連子状窓は闘□部としての機能を持つ窓と偽窓と呼ばれる本来の機能を持たない窓の2種類がある。

 

これはおそらく設計者の意図的配慮だと考えられるが、なぜ本来の役目を果たさない偽窓を作ったのか?連子状窓は外部からは内部の状態を見にくくし、内部からは連子越しに見える外部の情景に視覚的なアクセントを与える役目がある。

 

さらに秘められたものがもう一つあり、それは外観を遠目に見たときに、連子窓の―つひとつに直線的な影ができることを防ぐためのものだったと考えられる。ずばり、人々にそこを強調して見てほしくなかったのではないかと考える。

 

では、いったいどこを見てほしかったのだろうか?これは今まで綴ってきた中で、天空を貫くように突き出たピラミッド型の諸塔に目を向けさせるために他ならない。

 

人々の信仰が天界にあり、宇宙にあり、神にあるように、平地型の聖地で、その神秘的な塔を見ることにより、信仰を深く集めていったのだ。

 

偽窓を模索した寺院
偽窓に関連する寺院にタ・ケウ遺跡がある。アンコールワットよりはかなり前に建てられた寺院だが、この遺跡には大いなる取り組みが行われている。建物自体は未完成のまま放置されているが、その取り組みは随所に垣間見れる。

 

構成はピラミッド式寺院の周囲に回廊を組み合わせたものだが、連子を別に切り出して窓枠にはめ込む方法が採用されており、この時期にしては珍しく、新しい造形への挑戦が伺える。

 

回廊にはすでに偽窓が用いられ、プレ・ループ寺院の付属建築に残されている窓枠の仕口のように、木造から石造への発展過程を暗示している。

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