アンコール遺跡-巡礼の旅
 HOME »» アンコールワット
主な観光スポット
その他のスポット
 


アンコールワットの観光スポット
バンテアイ・プレイ    クオル・コー          クバール・スピアン▲
  プリア・カン         タ・ソム  
     ニャック・ポアン    
         
              バンテアイ・スレイ
         
         
 ライ王のテラス   トマノン    
  像のテラス         タ・ケウ      東メボン
      チャウ・サイ・テボーダ    
  王宮周辺        
 バイヨン寺院      
       タ・プローム   プレ・ループ
アンコール・トム        スラ・スラン  
      バンテアイ・クディ  
    南大門          プラサット・バッチュム
  プノン・バケン        
   アンコールワット   プラサット・クラヴァン
         
                 ロリュオス遺跡
                ロレイ
            プリア・コー
         ▼シェムリアップへ            バコン
アンコールワット
アンコールワット
 
アンコールワット
クメール建築を象徴するようなアンコールワット。 日本では奈良の東大寺がこれにあたると言われるが、そのスケールは 一望千里のごとく縹渺とした原野にその存在感を示す。

アンコールワットの周りに張られた水面越に浮かび上がるように佇む 姿が一般的に有名だが、内部に入るとそのスケールの大きさに驚かされる。 何世紀にもおよぶ途方も無い時間をかけて、王朝の権威をこのアンコールワット 建造を通して示してきた。

ゆえに、ダイナミックな外観もさることながら、こまごまとしたレリーフ にも一つ一つ意味が込められている。回廊に見るレリーフなどはそれぞれが 物語として私たちに語りかけてくる。また、見え隠れする中途半端なレリーフ にも意味深いものが見て取れる。

通常、こういった未完のレリーフなどは厳しく対処するイメージがどこの 王朝を見ても用意に想像がつくが、なぜ放置したままの状態になっているのか。 それぞれの捕らえ方で、感じ方も変わってくるとは思うが、ずいぶん大らかな 王様であったことは感じ取れる。また、田園風景にかこまれた長閑な地で 気候や風土が影響しているのかもしれない。

はたまた、後の修復作業をあえて行わず、当時のままを保存しているのかも しれない。真相はいずれにしても謎だが、こういった歴史のロマンを感じながら 見て歩くと、アンコールワットの醍醐味も増すといったところだ。

また、クメール建築ではだいたいの遺跡が東西軸上にあり、基本的に中心祠堂は東側が正面になっている。 したがって、各建物の入口は東西軸上にあるはずだが、よく見るとそれが微妙にずれている。 このずれは建造中に急な設計変更や後の増築によるものと見られるが、 12世紀以降の王国周辺では軸線が東西ではなく山頂を目指す寺院もいくつかある。

これは聖なる山を神と称えた宗教的考えからきていると思われる。こういった山岳崇拝の思想は 寺院建設において、全支配者の信仰を受け入れつつ、さらに聖なる山を崇拝することで、 民心を掌握しようとした感がある。こういった観点から遺跡を見ていくと年代や時代背景などと 結びつくことに気づくだろう。

アンコールワット さまざまな建築様式
さて、遺跡を回る上でもう一つ抑えておきたいポイントが建築様式にあるようだ。 元来、宗教建築の意義は神秘的なものからきていて、それは時として神として崇める 対象ともなるはずだ。

多くの遺跡は宇宙とを結ぶ民心の架け橋となり、象徴となってきた。 それは、解りやすく人々へ語りかけるものもあり、また、時として神秘的なベールに つつまれた謎も多くある。これらの多くに未来永劫続くであろう子孫に脈々と語り続けているのだ。 言葉以上に宗教的本質を示すものとなって現在にいたっている。

宗教はインドからもたらされたヒンドウー教や仏教が中心だが、一部にはこういった宗教と 土着の信仰が融合した「クメール教」と呼ばれるものもある。したがって、 伽藍の中心的な存在はヒンドゥーの神々を祭った「祠堂」であることは間違いないところだが、 それぞれの建物がどのように使われたのかはいまだに謎のままである。

内部に入ると、王の権力とその永遠性を表現するために ブラフマー神、ヴィシュヌ神などヒンドゥー教の神々が祭られている。 中でも、シヴア神の化身のひとつであるリンガ(男性器の象徴)などが祀られていることから、 子孫繁栄、すなわち、民族の永続性にも通じるものが崇拝された。

さらに、祠堂以外には、経文や宝物を納めた「経蔵」や、ゲートの役を果たす楼門や堪門、 祭祀を行う憎の生酒の場である「僧房」などがある。こういった生活に密着した場所を目の当たりに すると、かなりの人々がここで生活をしていたことが伺える。

回廊や周壁などの建築技術も複雑で、縦横にたくみに組み合わされたクメール建築の 粋が見て取れる。迫り出した天井部分などに着目してほしい。独特のつくりはクメール遺跡の どの遺跡にも通ずるものがあるはずだ。

クメール建築の工程
郊外にあるアンコール遺跡の数々を見ていくと特に感じるところだが、信仰の対象物となり、 中心的役割を果たす建物がまず建てられる。特に聖なる山の頂に見る遺跡に多いが、 その後、年月をかけ、周囲に必要とされる建造物を増築していったのだろうと思う。 それは大小様々な規模の遺跡を見ると必ずといって良いほど、中核の建造物が存在する からである。

最初は。祭祀のための小さな建物に過ぎなかったものが、人々の信仰と同時に 規模も同じく熟成されていく。途方も無い年月を経て、築かれたに違いない。親子何代にも 渡って築造に汗を流した部族も相当いるだろうと実感する。

バイヨン 造形に見え隠れする意図とは
アンコールの二大遺跡とも言える「バイヨン」を例にとって見てみたい。 時の王はどのような場所を自らが神となる場所として選んだのか? ここ「バイヨン」の周辺はアンコールトムと呼ばれ、王宮などもあり、まさに 王朝の中心地だ。

ゆえに、その敷地は大きく3つのタイプに分類できると考えたい。一つは 高低差の殆どないフラットな地形に形成される「平地式」。また、聖なる山を冠した、山頂部分に 形成される「山岳式」や山の斜面を利用する「山岳テラス式」。さらに祠堂を何層にも積み上げた 「ピラミッド式」からなる。

こういった背景からアンコールトム周辺を見てみると、主観ではあるが、人々が暮らしやすい 平地式に加えて聖なる山を模した何層にも積み上げた祠堂、さらにその周辺に様々な建造物を 作り上げ、見事にその3つの融合を図っているようにも見える。

史実に記されている時代背景からも、9世紀以前のプレ・アンコール遺跡の多くは、山岳式か平地式であったが 次第に自然の地形をも造形に取り込んで、ピラミッド式の基壇を造成したとある。 これに見え隠れするものとして、人々の暮らしぶりが垣間見えてくる。 山岳中心の生活から次第に、田畑中心の暮らしに移り変わる時の流れが伝わってくるようだ。

アンコールワット 華麗なる彫刻
アンコールワットの彫刻について考察してみたい。 古代クメール王たちは寺院を地上における至極の楽園と考えていたようだ。 それは、寺院の柱や壁、天井などに見る華麗なレリーフで容易に想像がつく。

目に見える部分は、それはそれは精密な浮き彫りで埋め尽くされ、建物全体が 一枚岩をくりぬいた壮大なるレリーフの芸術のようにも見える。このことから 決して義務感や使命感で生まれた傑作ではないことが解る。

それはまさに、建造に携わった人々の人生感を表すものであり、一人一人の人間が 命を懸けた仕事としてであり、その裏に凄まじい信仰心が支えていて、 乱戦の続いたカンボジアの人々にとっては唯一の心の支えになっていたのだろう。

神々の住む天界を崇拝し、地上における仏浄楽土を具現化したものこそが アンコール・ワットであった。それゆえに、アンコール・ワットを一言で 語れないのだが、見る人それぞれがどう受け取るか、またどう読み取るかが 一つポイントになってくるのだと感じる。


アンコール・ワット概要
カンボジアにあるアンコール遺跡の一つで、遺跡群を代表する寺院建築。 サンスクリット語でアンコールは王都、クメール語でワットは寺院を意味する。 大伽藍と美しい彫刻からクメール建築の傑作と称えられ、カンボジア国旗の中央にも同国の象徴として描かれている。

1586年、ポルトガル人のアントニオ・ダ・マグダレーナが西欧人として初めて参拝し、伽藍に対する賛辞を残している。1632年(寛永9年)、日本人の森本右近太夫一房が参拝した際に壁面へ残した墨書には、「御堂を志し数千里の海上を渡り」「ここに仏四体を奉るものなり」とあり、日本にもこの仏教寺院は知られていた事が伺える。1860年、寺院を訪れたフランス人のアンリ・ムーオの紹介によって西欧と世界に広く知らされた。

12世紀前半、アンコール王朝のスーリヤヴァルマン2世によって、 ヒンドゥー教寺院として三十年余の歳月を費やし建立される。

1431年頃にアンコールが放棄されプノンペンに王都が遷ると、 一時は忘れ去られるが再発見され、アンチェン1世は1546年から 1564年の間に未完成であった第一回廊北面とその付近に彫刻を施した。 孫のソタ−王は仏教寺院へと改修し、本堂に安置されていた ヴィシュヌ神を四体の仏像に置き換えたという。

中央祠堂(1866年撮影)1586年、ポルトガル人のアントニオ・ダ・マグダレーナが西欧人として初めて参拝し、伽藍に対する賛辞を残している。1632年(寛永9年)、日本人の森本右近太夫一房が参拝した際に壁面へ残した墨書には、「御堂を志し数千里の海上を渡り」「ここに仏四体を奉るものなり」とあり、日本にもこの仏教寺院は知られていた事が伺える。1860年、寺院を訪れたフランス人のアンリ・ムーオの紹介によって西欧と世界に広く知らされた。

Wikipedia参照






アンコール遺跡-巡礼の旅検索




建築材料の使い分け
アンコール遺跡ではいったいどんな材料を使っているのか調べてみた。 もっとも古くから使われているのが「レンガ」である。加工しやすい点から 多くの遺跡で使われている。

また、天井部分や扉などには木材も使用されている。その他、ラテライトや 漆喰なども後期に登場することになる。

装飾材に適したレンガ
アンコール期以前の建築で最も多く使われたレンガは、構造材であると同時に 装飾としても用いられた。ほとんどのレンガは粘土を釜で焼いて作られた。 9世紀前後には砂岩なるものも建築材料として用いられたがまだまだこの時代は レンガが主流だったようだ。

砂岩
9世紀前後期に入ると砂岩が多く使われ始める。 これは、構造材としてだけではなく、彫刻の施し易さに主眼を置かれ始めたためだ。 赤色や青色、灰色といったカラフルな色彩とそれに彫刻を施すことにより、絢爛豪華な 建造物をつくることが可能になった。

木材
以外にも木材は多く用いられたいる。当時、宮殿建築や王族が日常暮らす母屋などは ほとんど木造で建築されている。出入口の開口部に用いられたり、天井や扉の建具などにも 活用されている。

ラテライト
殆どの寺院の基礎になっているのがラテライト。 ラテライトはアジアなどの赤道地方一帯に見られる特有の土壌の一種で、 建築材料として幅広く使用されている。表面が粗く硬質であることから多くの遺跡の 基礎として使用されている。カンボジアの南部では現在でも住まいの基礎として 使われることが多い。

漆喰
9世紀後半のロリュオス遺跡群や東メボン、プレ・ループなど、アンコール遺跡の中でも 比較的古い遺跡に使用されているケースが多い。レンガ造りの外壁面に塗られるものが多く、 レリーフとも関係がある。レンガの上に下彫りをした状態で漆喰を塗り、その後乾いたところで、 細やかな彫刻を施す。表面は比較的やわらかいので、彫刻するにはうってつけの材料となった。 しかしその反面、耐久性の悪さがあり、すぐに剥がれ落ちるといった特性がある。