アンコール遺跡-巡礼の旅
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アンコールワットと日本の関係
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アンコール遺跡・アンコールワット
 
アンコールワットと日本の関係
アンコール・ワットに最初に訪れた日本人は誰か? 史実によると徳川三代将軍家光の時代まで遡る。 時の将軍家光の命を受けた長崎の通詞(通訳)だった島野兼了 という人物だ。

仏教の聖地、釈迦在世にあった5つの寺院でもある「祇園精舎」の 視察という目的のためカンボジアを訪れている。 以下はWikipediaを参照していただきたい。

江戸幕府三代将軍・徳川家光は、長崎のオランダ語の通訳・島野兼了に仏教の聖地「祇園精舎」の視察を命じている。 その頃カンボジアのプノンペンの日本人町の人達は、アンコール・ワットが祇園精舎であると誤認していた為、その誤った情報が日本にも伝えられ、大勢の日本人が祇園精舎の参詣としてアンコール・ワットへ出かけていた。 島野兼了もその誤った情報により、そこが天竺(インド)の「祇園精舎」であると思い込んだままアンコール・ワットを視察し、一枚の「見取図」を作成した。 それが当時の長崎奉行・藤原忠義によって正徳5年(1715)に模写され、その後所有者の変遷はあったものの『祇園精舎図』と題された古地図は、今も彰考館(茨城県・水戸市)に保存されている。 明治末期になって、建築史学者の伊東忠太がこの見取図を鑑定した結果、全体構造から推してアンコール・ワットの見取図であることが判明した。Wikipedia参照

この話には続きがあり、この見取り図は長崎奉行、藤原忠義によって模写され その後転々と所有者が変わり、現在は水戸の彰考館に保存されている。 見取り図が作成されたのは、正徳5年(1715年)のことで、この見取図の面白いところが、 石造の寺院をまるで日本の木造仏教寺院のように描いているところだ。

中央祠堂を五重塔として描いたり、シンハ(獅子)が唐獅子に変化しているところもある。 今回、アンコール遺跡を旅して、その共通点は随所に垣間見れた。姿形だけでなく、 その神秘的な趣が、日本人の心をどこかなごませている。 日本人の残した一枚の図面から、共通な思いを馳せるのは決して私だけではないような気がする。




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未完成も見所の一つ
クメール遺跡を見て回ると、遺跡の概念を覆されるような荒廃した ものや、細部に渡り未完成のままで終わってしまっている箇所が随所に見られる。 通常、宗教建築において未完成部分は殆どといってありえないのだが、 考えられるに、王が急死して工事が途中でストップしたことが一つ言える。

アンコールワットにもこのような未完成の部分が多く残っている。 しかし、10年にも及ぶ歳月がかけられ完成されたとするアンコールワットに、 随所に未完成部分が残っているのは、それだけが理由ではなかったように 思える。

単に私たちが未完成と思うもの全てが完成品として完結しているのであるとすれば、 それは、クメール建築に対する根本的考えから変えなくてはならないだろう。 日本の建築を見てみると、見えないところまで綺麗に装飾され、怠ること自体が 手抜き工事と非難する向きもある。

アンコール遺跡を築き上げたクメール建築の数百年にも及ぶ歴史の集大成がアンコールワット だとすれば、きっとその意味があるというもので、ますます謎は深まるばかりだ。