|
サイパンの歴史
|
|
|
スペイン統治時代
1521年3月6日にマゼランがヨーロッパ人として初めてマリアナ諸島を発見し、
1565年にはマリアナ諸島の領有を西欧諸国に布告した。それ以降3世紀に渡り
スペインの統治下にありました。
1668年にイエズス会のサンヴィトレス神父を長とする伝道使節団が
マリアナ諸島のグアム島に来訪して以来、マリアナ諸島全域で住民
のキリスト教化が始まった。
当初の布教は順調であったが、島民の
習慣に干渉する神父たちに島民は反感を抱くようになり、1670年1月
にサイパン島で島民による伝道師殺害事件が起きた。この事件がその
後十数年に及ぶスペイン=チャモロ戦争の発端となり、スペインは軍隊
を派遣して島民を虐殺しました。
その後、1695年にスペインはサイパン以北のマリアナ諸島の島民を
サイパン島に強制移住させたが、それらの島民も1698年にサイパン
島に元からいた住民と共にグアム島へ強制移住させられ、サイパン
は一時無人島となりました。
1815年にはカロリン諸島のサタワル島から酋長アグルブに率いられた
一団が移住し、更にスペインはチャモロ人の帰島を認めたため再び同
島は有人島となりました。
ドイツ統治時代
空から見たサイパン島1898年、米西戦争でスペインの支配は終わり
ドイツに売却される。ドイツは開拓を放棄し、同島を流刑地に選んだ。
日本統治時代
1914年7月、第一次世界大戦が勃発し、10月14日には連合国側であった
日本が赤道以北の南洋諸島全体を占領しました。この事に伴い、日本国内
では彩帆島と呼称される事となる。1920年には国際連盟の委任統治領となり、
同島には南洋庁サイパン支庁が置かれ、サイパン島は内地から南洋への
玄関口として栄えた。
日本刑務所跡
第二次世界大戦中は、日本軍司令部があったこともあり、1944年6月の
アメリカ軍をはじめとする連合国軍の上陸の際には住民を巻き込んで
の激しい戦闘によって多数の犠牲者を出した。現在でもバンザイクリフ
(Banzai Cliff) やスーサイドクリフ (Suicide Cliff) など島のあちこ
ちに戦争の名残があります。
サイパンの戦い
大東亜戦争(太平洋戦争)中、1944年6月15日から7月9日に行われたアメリカ軍と
日本軍のマリアナ諸島サイパン島における戦い。ホランド・スミス中将指揮の
アメリカ軍第2海兵師団、第4海兵師団、第27歩兵師団が斎藤義次中将が指揮する
日本軍第43師団を潰滅させ、サイパン島を占領しました。
Wikipedia参照
|
|
北マリアナ諸島
|
北マリアナ諸島は、
アメリカ合衆国(米国)の属領・保護領(自治的・未編入領域)です。
ミクロネシアのマリアナ諸島のうち、サイパン島、ロタ島、テニアン島など、
南端のグアム島を除く14の島から成る。首都はサイパン島のススペ。
1919年から1944年まで日本が委任統治した。現在は米国属領の中でも
コモンウェルスという政治的地位にあり、北マリアナ諸島住民は
アメリカ合衆国連邦税の納税義務を持たない代わり、アメリカ合衆
国大統領選挙の投票権がない。
|
松江春次とサイパン
|
松江春次は、サイパンの歴史を見る上で、ぜひ覚えておきたい人物です。
サイパンの「砂糖王」であり、南洋興発株式会社初代社長。
戦前は5万人もの日本人がサイパンに入植し暮らしていました。
日本軍がサイパンの戦いに敗れ、アメリカ軍の統治下になった
のりも、「キング・オブ・シュガーの像」としてその栄誉を
称え続けられたいる。
現地では砂糖製造を中心に開発事業に成功し
優れた開拓者として語り伝えられている松江春次氏。
青年時代は大日本製糖に入社しアメリカのルイジアナ大学に留学。
砂糖科を卒業しています。
その後、技術習得のためにヨーロッパへ修行。
グローバルな感性を養い、31歳で帰国。
日本初の角砂糖の製造に成功しました。
大きな転換期となったのが台湾での製糖業の
成功で、こらが自身にとっての大きな基盤となる。
サイパン島へ渡った松江春次は、当時現地に入植
していた日本人の多くが飢えに苦しんでいて、
飢餓をすくうべく南洋興発株式会社を設立。
事業は成功し、やがて5万人もの入植者を迎える
ことになる。
|
|