ベトナム南北問題 |
南北問題 |
ベトナム戦争後、統一国家となったベトナム社会主義共和国であったが今尚南北間の対立意識は続いている。
現在、表立って問題視することはないが南北間の歴史感の溝を埋めるのは困難である。理由は南ベトナム人は乗り込んできた北ベトナム軍によって家屋敷、公共施設は接収され警察、病院、学校などは全て北ベトナム人が要職を支配したことも一因であろう。 |
753年 |
日本との関係 |
ホイアンの日本橋。この橋は鎖国前の交易のあった頃に日本人によって作られたと言われ[1]、今でも現地の人に大切に使われている。提灯にフェホォと書いてあるが、これは当時のこの町の呼称である。世界遺産。西暦734年遣唐使判官・平群広成が帰国の途上、難破して崑崙国に漂流し抑留された。フエ付近に都があったチャンパ王国と考えられる。広成はその後、中国に脱出し、渤海経由で帰国している。753年には遣唐使藤原清河や阿倍仲麻呂が帰国の途上、同じく漂流し、当時中国領だった安南のヴィン付近に漂着した。東シナ海から南シナ海に南下する海流の関係でこのような漂流ルートが存在したようだ。これが縁で阿倍仲麻呂は761年から767年まで鎮南都護・安南節度使としてハノイの安南都護府に在任した |
14世紀〜15世紀 |
琉球王国 |
14世紀から15世紀にかけて交易国家として栄えた琉球王国はチャンパ王国とも通好があった。17世紀になると朱印船がベトナム方面へ進出し、江戸幕府は北ベトナムの大越黎朝や南ベトナムの広南阮氏政権とも外交文書を交換し、朱印船が出入りした。ホイアン(会安)には日本人町も形成されている。朱印船はまた南遷していたチャンパ(占城)でも唐船(中国船)と出会い貿易を行っている。 |
第二次世界大戦末期の1945年
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大戦末期 |
第二次世界大戦末期の1945年に、ベトナム北部で大量の餓死者が発生した。餓死者は推計200万人に近いとされる。ホー・チ・ミンが独立宣言の中でフランス/日本の二重支配によって200万人が餓死したと演説しており、ベトナム国内ではこの200万人という数字は広く知られている。いずれにしろ、この件につき、日本に対しベトナム政府は外交問題として取り上げたことはない。より多くのベトナム人が、その後の第一次インドシナ戦争、ベトナム戦争で亡くなっているためと考えられている。 |
第一次インドシナ戦争 |
戦後、フランスが再び進駐してくると、仏軍とベトナム民主共和国軍の間で戦争(第一次インドシナ戦争)が始まったが、仏越両軍に日本軍兵士が多数参加した。当時、ベトナムには766人の日本兵がとどまっており、1954年のジュネーヴ協定成立までに47人が戦病死した。なかには、陸軍士官学校を創設して、約200人のベトミン士官を養成した者もおり、1986年には8人の元日本兵がベトナム政府から表彰を受けた。ジュネーヴ協定によって150人が日本へ帰国したが、その他はベトナムに留まり続けた模様である |
1951年平和条約を締結 |
平和条約締結 |
1951年に日本政府はベトナム国(南ベトナム)と平和条約を締結し、1959年には岸信介首相(当時)がベトナム共和国政府と140億4000万円の戦争賠償支払いで合意した。一方、ベトナム民主共和国(北ベトナム)は戦争賠償の請求権を留保したが、1973年に外交関係が樹立するまで日本と北ベトナムは国交のない状況が続いた。
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日本企業のベトナム進出 |
近年、日本企業のベトナム進出が相次いでいるが、その要因として中国の半分から3分の1ともいわれる賃金、AFTA(ASEAN自由貿易地域)の推進に伴ってASEAN域内への輸出拡大が見込める点、さらには中国一極集中のリスクの回避などが挙げられる。 |
緩やかな同盟関係 |
現在、両国の関係は「緩やかな同盟関係」と評されている。ファン・ヴァン・カイ前首相は親日・知日家で知られており、また、日本政府や経団連も積極的に経済援助を行っている。一方、グエン・タン・ズン新首相は親中派で日本に対する関心が低いと一部報道で伝えられており、今後の両国の関係を懸念する向きもある。 |