バリ島-観光マップ
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---The Bali Island ---
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バリ島の祭礼
独特の文化や芸能、宗教にふれることこそバリ島の旅の醍醐といえる。 特にオダランなどの祭礼に出合えれば、その一端を垣間見ることができる。 各地の観光案内所で近郊の祭礼スケジュールを確認することができる。

祭礼は観光用の見世物はなく、全てが実際に行われるリアルなものばかりで、 現地の人々にとって大切な宗教儀式である。それゆえに見学する際には 心を清めておきたい。

服装は軽装は不可で、特に露出の高い服装は控えたほうが良い。 バリ島に着いたら、まず町の市場などでサルン(腰布)を買って 用意しておくとよい。
バリ島の歴史
バリ島の歴史
バリ島の歴史
 
有史以前
紀元前2000年頃には、台湾起源のオーストロネシア語族が居住していたとされ[8]、紀元前1世紀ごろから交易を介してインドや中国の影響を受けるようになり、ドンソン文化の影響を受けた銅鼓が発見されるなど、古くから人が住み稲作を中心とした文明が開けていた。

4世紀に入ると、ヒンドゥー教に属するジャワの人びとが来住し、ヒンドゥー・ジャワ時代をむかえ、その初期からジャワ王の支配下のもとで発展を続けた。そして、西暦913年頃に、ようやく、スリ・クサリ・ワルマデワによって独自のワルマデワ王朝が築かれたとされている


ジャワ王朝の影響(11世紀 - 16世紀)
11世紀に入るとバリ島の王朝は東ジャワのクディリ王国とのつながりを強めるようになる。スバックなど21世紀初頭でも続いている伝統的な文化・慣習の起源は少なくともこの頃にまで遡ることができ、たとえば、カヤンガン・ティガや家寺院の建立は、この頃にジャワから渡ったヒンドゥーの僧侶クトゥランが広めた慣行とされている。

1248年には、クディリ王国を滅ぼしたジャワのシンガサリ王国クルタナガラ王の軍隊によって征服され服属するも、その8年後には、当のシンガサリ王国が新王国マジャパヒトによって滅ぼされたために、再び自由を手にする。


群雄割拠による王国時代(17世紀 - 19世紀)
ゲルゲル王国の黄金時代は長くは続かず、1651年、ゲルゲルの王が家臣の謀反をきっかけとしてクルンクン(現在のスマラプラ)に遷都すると、その実権は各地に拠点をおいた貴族家の手に移ってしまう。そして、17世紀から18世紀にかけて、各地の貴族は自らがマジャパヒト征服時の貴族(とりわけ、ヒンドゥー教高僧ワオ・ラオ)の正統な末裔であることを自称するようになり[11]、クルンクン王国のほかに7つの小国(タバナン王国、バドゥン王国、ギアニャール王国、カランガスム王国、バンリ王国、ムンウィ王国)が乱立し、バリ島は群雄割拠の時代を迎えることとなった。


オランダによる植民地化とバリ・ルネッサンス
(19世紀末 - 20世紀前半)
19世紀末になると、当時の帝国主義的風潮の下、オランダがバリ島の植民地化を進め、各地の王家を武力により支配下に置き始める。まず1846年にバリ島側の難破船引き上げ要請を口実として、東北部に軍隊を上陸させ、ブレレンとジュンブラナを制圧。徐々に侵攻を進め、1908年には、最後に残ったクルンクン王国を滅ぼし、全土を植民地とするに至った。しかし、この際にバリ島の王侯貴族らがみせたププタン(無抵抗の大量自決)によってオランダは国際的な非難を浴びることとなる。


第二次世界大戦と日本軍の占領統治
(1942 - 1945年)
太平洋戦争中にバリ島は日本の占領下に置かれた。1942年2月、日本軍が侵攻を開始。オランダ軍が駐屯していなかったため、日本軍にはほとんど被害がなく、バリ島沖海戦の勝利を経て、わずか20日でオランダ軍は全面降伏した。現地人は反植民地主義の「解放者」として出迎えるも、同年6月にはオランダと同様の統治体制が敷かれることになった。


スハルト体制下の観光開発
(20世紀後半)

スハルトによる開発独裁の時代に入ると、バリ島はようやく平穏を取り戻す。そして、インドネシア政府の周到な配慮の下、観光による外貨獲得を最大の目的とした観光開発が始まり、1970年代以降、世界的な観光地へと成長することとなった[27]。

1963年、日本からの戦争賠償金によりサヌールにバリ・ビーチ・ホテルが建設され、1966年に開業。1967年にングラ・ライ空港が開港すると、サヌールがバリ島へのマス・ツーリズムの最初のメッカとなった。

Wikipedia参照



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宗教はバリ・ヒンドゥー教
バリ島の島民の約85%はバリ・ヒンドゥー教徒で、 残りの15%がイスラム教やキリスト教、仏教などを信仰している。 通常インドネシアではイスラム信徒が圧倒的に多く、バリ・ヒンドゥー教は 極めて稀な例である。

人々の生活は朝夕の供物に始まり、寺院の創立祭であるオダランはもちろん 誕生から死までの数々の儀式も、宗教と密接に結びついている。
ププタン
ププタン(puputan)とは、古来よりあるバリの風習で、王朝が戦闘で敗北すると自決を選び、多くの王族、貴族が殉死をする事。

バリ語で「終焉」を意味する。特に19世紀末のオランダによるバリ島侵攻時に、王国のいくつかが、王(ラジャ)を先頭に美しく着飾り、親族や家臣らが行列を作って自決覚悟でオランダ軍に向かって「死の行進」をして銃弾に倒れていった集団自決行動を指す。

さらには、インドネシア独立戦争の過程で、グスティ・ングラライ将軍率いる部隊がオランダ軍と熾烈に戦い全員玉砕した行為などをいい、反植民地、独立のシンボルとして語られている。

Wikipedia参照